岩手県盛岡市開運橋
岩手県盛岡市の開運橋です。
北上川にかかる橋ですが盛岡駅と市街地を結ぶ道路上の橋なので、橋の近くの交差点はにぎやかな感じがします。

1月です。
寒い時期なので道路には雪も残っています。
でも、今年は雪が少ないと盛岡の人は言っていました。






イワツバメでしょうか?
鳥の名前はわからないので、知っている人がいたら教えてください。
橋のあたりにずっといました。
歩いているのでムクドリかとも思ったのですが足の色が違う気もします。

開運橋から見た北上川です。
開運橋は、NHKの連続テレビ小説『どんど晴れ』のロケ地にもなりました。
時間があれば、見てみたいと思います。
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北上川にかかる橋ですが盛岡駅と市街地を結ぶ道路上の橋なので、橋の近くの交差点はにぎやかな感じがします。

1月です。
寒い時期なので道路には雪も残っています。
でも、今年は雪が少ないと盛岡の人は言っていました。






イワツバメでしょうか?
鳥の名前はわからないので、知っている人がいたら教えてください。
橋のあたりにずっといました。
歩いているのでムクドリかとも思ったのですが足の色が違う気もします。

開運橋から見た北上川です。
開運橋は、NHKの連続テレビ小説『どんど晴れ』のロケ地にもなりました。
時間があれば、見てみたいと思います。
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旧芝離宮恩賜庭園
2015年、あけましておめでとうございます。
新年の旧芝離宮恩賜庭園に行ってみました。
浜松町の駅の近くです。
いつもは通り過ぎるのですが、たまには中へも入ってみます。
旧芝離宮恩賜庭園(きゅうしばりきゅうおんしていえん)は、東京都港区海岸にある都立庭園。大久保忠朝上屋敷の庭園楽寿園が始まりで、宮内庁管理の離宮を経て、大正13年(1924年)東京市に下賜され、旧芝離宮恩賜庭園として公開された。
Wikipediaより引用




2015年1月現在の入場料は、大人150円です。
そんなに高くはありません。






旧芝離宮恩賜庭園は江戸幕府の老中・大久保忠朝の上屋敷内に作庭した大名庭園楽寿園を起源とする回遊式庭園である。作庭当時は海岸に面しており、浜離宮恩賜庭園同様汐入の庭であった。現在では周囲の埋め立てとビル群により海の眺望は失われた。一部が鉄道の増設用地に提供され面積が狭くなった。
Wikipediaより引用




庭園の中心には池があります。
池には周辺の高層ビルが映ります。
さかさ富士ならぬ、さかさビルです。

松の木も冬支度です。
丁寧に時間をかけて支度されているようです。




早咲きの桜です。
梅や桜の木は、春になればきれいに咲くことでしょう。















沿革
延宝6年(1678年)、老中・大久保忠朝が芝金杉の地を拝領し、屋敷を構える。
貞享3年(1686年)、大久保忠朝屋敷内の庭園楽寿園として作庭される。
文政元年(1818年)、大久保忠真が邸地を返上、堀田正功が拝領する。
文政4年(1821年)、堀田家が邸地を返上、御用屋敷となる。
文政6年(1823年)、清水家の下屋敷となる。
弘化3年(1846年)、紀州徳川家が拝領、同家の別邸となり、芝御屋敷と称された。
明治4年(1871年)、有栖川宮熾仁親王邸となる。
明治8年(1875年)、英照皇太后の非常御立退所として皇室が買い上げた。
明治9年(1876年)、芝離宮となる。
明治24年(1891年)、迎賓館として洋館を新築。
大正12年(1923年)、関東大震災で洋館焼失。
大正13年(1924年)、昭和天皇の御成婚を記念し、1月に東京市(現東京都)に下賜され、園地の復旧と整備を施した後、4月20日、旧芝離宮恩賜庭園として開園。
昭和8年(1933年)、史蹟指定を受ける。
昭和54年(1979年)、文化財保護法により名勝指定を受ける。また、この年から入園が有料となった。
Wikipediaより引用









【概要】
小石川後楽園と共に、今に残る江戸初期の大名庭園の一つです。回遊式泉水(せんすい)庭園の特徴をよくあらわした庭園で、池を中心とした庭園の区画や石の配置は、非常に優れています。
明暦(1655~1658年)の頃に海面を埋め立てた土地を、延宝6年(1678年)に老中・大久保忠朝が4代将軍家綱から拝領しました。
忠朝は屋敷を建てるにあたり、藩地の小田原から庭師を呼び、庭園を作ったと言われています。庭園は「楽寿園」と呼ばれていました。
庭園は、幾人かの所有者を経たのち、幕末頃は紀州徳川家の芝御屋敷となりました。明治4年には有栖川宮家の所有となり、同8年に宮内省が買上げ、翌9年に芝離宮となりました。離宮は、大正12年の関東大震災の際に建物や樹木に大変な被害を受けました。
翌年の大正13年1月には、皇太子(昭和天皇)のご成婚記念として東京市に下賜され、園地の復旧と整備を施し、同年4月に一般公開しました。また、昭和54年6月には、文化財保護法による国の「名勝」に指定されました。
東京都 建設局 公園緑地部HPより引用






都会の中の静かな公園です。
また、春になれば行ってみたいと思います。
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新年の旧芝離宮恩賜庭園に行ってみました。
浜松町の駅の近くです。
いつもは通り過ぎるのですが、たまには中へも入ってみます。
旧芝離宮恩賜庭園(きゅうしばりきゅうおんしていえん)は、東京都港区海岸にある都立庭園。大久保忠朝上屋敷の庭園楽寿園が始まりで、宮内庁管理の離宮を経て、大正13年(1924年)東京市に下賜され、旧芝離宮恩賜庭園として公開された。
Wikipediaより引用




2015年1月現在の入場料は、大人150円です。
そんなに高くはありません。






旧芝離宮恩賜庭園は江戸幕府の老中・大久保忠朝の上屋敷内に作庭した大名庭園楽寿園を起源とする回遊式庭園である。作庭当時は海岸に面しており、浜離宮恩賜庭園同様汐入の庭であった。現在では周囲の埋め立てとビル群により海の眺望は失われた。一部が鉄道の増設用地に提供され面積が狭くなった。
Wikipediaより引用




庭園の中心には池があります。
池には周辺の高層ビルが映ります。
さかさ富士ならぬ、さかさビルです。

松の木も冬支度です。
丁寧に時間をかけて支度されているようです。




早咲きの桜です。
梅や桜の木は、春になればきれいに咲くことでしょう。















沿革
延宝6年(1678年)、老中・大久保忠朝が芝金杉の地を拝領し、屋敷を構える。
貞享3年(1686年)、大久保忠朝屋敷内の庭園楽寿園として作庭される。
文政元年(1818年)、大久保忠真が邸地を返上、堀田正功が拝領する。
文政4年(1821年)、堀田家が邸地を返上、御用屋敷となる。
文政6年(1823年)、清水家の下屋敷となる。
弘化3年(1846年)、紀州徳川家が拝領、同家の別邸となり、芝御屋敷と称された。
明治4年(1871年)、有栖川宮熾仁親王邸となる。
明治8年(1875年)、英照皇太后の非常御立退所として皇室が買い上げた。
明治9年(1876年)、芝離宮となる。
明治24年(1891年)、迎賓館として洋館を新築。
大正12年(1923年)、関東大震災で洋館焼失。
大正13年(1924年)、昭和天皇の御成婚を記念し、1月に東京市(現東京都)に下賜され、園地の復旧と整備を施した後、4月20日、旧芝離宮恩賜庭園として開園。
昭和8年(1933年)、史蹟指定を受ける。
昭和54年(1979年)、文化財保護法により名勝指定を受ける。また、この年から入園が有料となった。
Wikipediaより引用









【概要】
小石川後楽園と共に、今に残る江戸初期の大名庭園の一つです。回遊式泉水(せんすい)庭園の特徴をよくあらわした庭園で、池を中心とした庭園の区画や石の配置は、非常に優れています。
明暦(1655~1658年)の頃に海面を埋め立てた土地を、延宝6年(1678年)に老中・大久保忠朝が4代将軍家綱から拝領しました。
忠朝は屋敷を建てるにあたり、藩地の小田原から庭師を呼び、庭園を作ったと言われています。庭園は「楽寿園」と呼ばれていました。
庭園は、幾人かの所有者を経たのち、幕末頃は紀州徳川家の芝御屋敷となりました。明治4年には有栖川宮家の所有となり、同8年に宮内省が買上げ、翌9年に芝離宮となりました。離宮は、大正12年の関東大震災の際に建物や樹木に大変な被害を受けました。
翌年の大正13年1月には、皇太子(昭和天皇)のご成婚記念として東京市に下賜され、園地の復旧と整備を施し、同年4月に一般公開しました。また、昭和54年6月には、文化財保護法による国の「名勝」に指定されました。
東京都 建設局 公園緑地部HPより引用






都会の中の静かな公園です。
また、春になれば行ってみたいと思います。
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